神が私に触れた日(多分)

神戸市東灘区の天上川

 
 
父は、40代前半の時に初期の中の初期のガンが見つかり、左肺を半分切除した。
詳細は差し控えるが、本来は発見できないレベルの小ささであったため、抗がん剤の使用は不要、その後の回復も良好であった。本人以外はすっかり思い出になりかけていた10数年後、職場の健康診断で再検査を言い渡された父は、単独で病院に赴いた。右の肺に新しいガン、あわせて大腸への転移も見つかった。1度目のような奇跡はなかった。
 
 
最初の1年は、仕事の合間に抗がん剤治療を受けたり家族旅行をしたり、と表面上は穏やかな日々であった。母が西国三十三所巡礼をはじめていたので、それを助ける形で夫婦での旅行もあちらこちら行っていたようである。当時、私も弟達も実家から独立しておりその全てを把握できていないのだが、仕事とパチンコと麻雀とたまに甲子園で阪神タイガースの試合観戦が基本行動パターンだった父が、母と北海道旅行にまで行ったことは驚きでしかない。しかし、定年後にやろうと思っていたことを実行しているのかもしれないと思い当たってしまい、複雑な気持ちがなかったといえば、嘘である。定年まであと4年以上。積極的な治療が望めない以上、そこまで生きられる奇跡は起こりようがなかったのだから。
 
 
 
2年目に入った。正月、GW、盆と暦の連休が続けば東京から神戸へ、帰省の機会を増やした。薬、食欲、ガンの進行の影響や死への恐れをはじめとする精神的なこと...様々なキツさ辛さが重なった父の顔つきの変化は、毎日一緒に暮いる母より離れて暮らす私の方が敏感に感じていたはずなのだが、当時は全く認めていなかった。写真に残ってはいるのだが、私にとっての父の顔とは異なって映る。家族に向き合う顔ではなく孤軍奮闘していた証。
 
夏の終わりには出勤が難しくなり自宅待機になっていた父。宣告後、後任として仕事を引き継いだのは息子程に若い青年F君であったが、打てば響く優秀な仕事っぷりだけでなく心も相当に優れた好人物で、クセ強めの父と母のスッカリお気に入りであった。
体育の日の連休を利用した秋の帰省の時には、家からタクシーで10分の温泉つき銭湯に行ったり、買ってきた寿司を食べたり、少しは酒も飲めていたのだろうか。F君のことをニコニコ話していた団欒の席は綱渡りで、父が寝た後に、母はポツリと、こんなに食べたのは久しぶりだと呟いた。
連休の最終日。母がパートに出かけて不在の昼下がり、明日からの仕事に備えて帰京する旨を父に伝え身支度を整えた。父は玄関までやってきて「気をつけてな」の一言をくれて、うん、と応じて家を出た。エレベーターを降りて、マンションの玄関を出て、通り沿いに左手の駅の方へ進路を取る。そこから数歩よりもう少し歩いて、なぜか、私は振り返った。
 
 
お父さん、がいた。
ベランダの3階から、じっとこちらを見ていた。
もう、大きな声で呼ぶ力なんてなかったから
私が見つけたから、小さく右手を挙げて振ってくれた。
 
 
 
物心ついた頃から仕事に行く父を見送った機会はほとんどない。見送られたことも勿論ない、それは母の役割だったから。少なくとも、ベランダがない貧乏長屋で育った私には、家族がベランダから見送ってくれるという習慣は身についていないのだ。
 

なのになぜ、振り返ったのだろう?
 
 
大きく、手を振り返した。
通行量が多い4車線道路の脇だったから
多分何も叫んだりはしなかった。
どれぐらいの時間、手を振っていたかわからないが
駅まで向かう足取りがとても軽やかだったのはよく覚えている。
 
 
この日から2ヶ月後、父は旅立った。
 
子どもの頃からよく知っているあの笑顔が最後に見た父の顔だ。
父が最後に見た私の顔も笑顔だ、と確信している。

 

 

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 はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

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